英国ホスピスコラム


イギリスの病院でマクミラン緩和ケア専門看護師
(Macmillan Palliative Care Clinical Nurse Specialist)として働くナースのブログ

2005年09月

本・バトン

「オヤジの世界」の呂布奉先さんから本・バトンをもらっちゃいました笑顔

イギリスに着てから日本語の活字が恋しくなったけど、英語の勉強のため日本語離れしなければと我慢し、英語の本を読むようにしてたけど、去年あたりから自分へのご褒美?のつもりでけっこう日本語の本も読み始めたところ

(1)持っている本は?
約80冊。日本にあるのをあわせたら100冊くらいかも。
のめりこんでしまうと眠る時間も惜しんで読みふけってしまう・・・。
でも読まないときは1・2週間まったく読まない

(2)今読みかけの本は?
「スピリチュアルペイン -いのちを支えるケアー」
青海社からでている雑誌「緩和ケア」の増大特集号。
日本の緩和ケアから取り残されちゃうと悲しいので「緩和ケア」は定期購読中

「PAIN creative approaches to effective management」
今やっている大学のコースのreading listの本。まだまだたくさんあるので早く読みおわらねば・・・困った

(3)最近買った本は?
「スピリチュアルペイン -いのちを支えるケアー」青海社
「SUDOKU」・・・最近はまっているパズル。本じゃないか、でも本屋さんで買ったんだけどね(笑)

(4)特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊まで
「病院で死ぬということ」山崎 章郎
終末期医療についてとっても考えさせられた本
もう出版されて10年くらいたつけど医療関係者もそうでない人にもぜひお勧めしたい一冊。続編もお勧め。

「銀の海 金の大地」氷室冴子
古代が舞台の悲しい運命に翻弄される少女が主人公のお話。そういえば、この物語、続きが出るはずだったのに、その後どうなったんだろ?
まだ私がティーンエージャーだったころ(すごい昔に感じてしまう・・・落ち込み)少女小説というものがはやりまして・・・。この氷室冴子さんの本は大好きで読み漁った
「なんて素敵にジャパネスク」も夢中で読んだな

「負け犬の遠吠え」酒井 順子
負け犬の生態、苦悩、生き方が面白く書かれている
そんな私も負け犬(笑)とっても共感できる一冊笑顔
ちなみにこのブログにコメントくださる牛丼太郎さんがくれたもの

「イギリス人はおかしい」「わたしのイギリス あなたのニッポン」「イギリス人はしたたか」etc 高尾慶子
いままでイギリスを絶賛する系の本は読んだけど実際住んでみると「うそだろ・・・」と思ってしまったけど、この高尾さんの本は独断的な部分もあるけど結構共感して、リアルなイギリスを書いていると思った
ちなみにこの本も友人が「H iさんのイメージにピッタリだから」とプレゼントしてくれたもの。
どういう意味でピッタリなのか聞きたい・・・落ち込み

(5)どの様なジャンル、読み方をされますか?
小説は推理系とか先がわからなくてどきどきさせられるものが好き
宮部みゆき、鈴木光司、Sidney Sheldonとか

看護系は一応専門なので緩和ケア関係を
帰国すると日本で出ている緩和ケア関係の本を3・4冊買って帰るので結構日本語の本も持っている
英語のほうは職場や大学の図書館でかりて・・・(だって医療系の本は高いんだもん)
とくにSpiritual distressとか症状マネージメント系の本

旅行のガイドブック・旅行記系。そんなにしょっちゅう旅行に行くわけではないが行きたいところがあるとガイドブックを見ては旅行計画を立てたりしていくつもりになる 
ニュージーランド、スペイン、アイスランド、北欧、スイスはそのうち絶対行くつもり音符

(5)では次の方をご紹介下さい。
お忙しいとこ恐縮ですが

「風は思うままに吹く」のメリさん
「くろすけ雑記帳」のくろすけさん
「Tim Tam通信」のHarryさん
「ウェールズの丘へ」のピュー子さん
いかがでしょうか?もちろん、お暇があったらで結構ですのでドキドキ小


仕事がつらくなるとき・・・

私の働いているホスピスは日勤スタッフ夜勤スタッフと分かれていて、私は夜勤スタッフ。ローテーションが決まっているので、いつも同じメンバーで働くことが多い。
マリー(仮名)はホスピスにもう10年以上も勤めるベテランのAuxiliary nurseでいつも笑顔で患者さん・家族にも親切、ユーモアたっぷりの働き者。
彼女は私の母親の年ぐらいだが、お互いいつも冗談を言いながら楽しく仕事をしている。

前回の夜勤、私はマリーとともに病棟を受け持ち働いていた。ある日の朝に私たちは衝撃的な死に出会ってしまった。けして落ち度があったわけではなく、患者さんの状態が急激に悪化し、あっという間に逝ってしまったのだ。
私もマリーもその場に立会い、二人とも思わず泣いてしまったほどだった。

その日の夜もマリーと私は勤務だった。マリーに笑顔はなく、
「もう十分(仕事を)やってきた気がする。やめたい・・・。」
といった。

一通り患者さんたちの寝る前のケアが終わったところで、私とマリーは朝の患者さんの死について話し合った。
この分野にかかわる以上、私たちはたくさんの患者さんを看取っていく。私たちも人間だからそれをつらいと思うし、やりきれなくなってしまうこともある。でも、一人で悩まず、私たちはよくこうして話し合い、気持ちを共有しあうことでお互いサポートする。

特にケアの難しかった患者さんのケースなどはミーティングを開きみんなで話し合う。時には外部から専門の人を招いてミーティングを開くこともある。

私は患者さんの死にであったり、つらい場面に出会い落ち込むと、何かその患者さんや家族にとって良いことはなかったのかと考える。悪いことにばかり目を向けてしまったらつらくなるばかりだから。
時々、そんな風に良いことばかり探そうとするのは自己満足や自分勝手な考えだろうかとも悩むけど・・・。落ち込み

けしてつらいことばかりでもない。私たちはこの仕事が好きだから。
今度の勤務でまたマリーが笑顔で出勤して来てくれるのを願って・・・。キラキラ

Bereavement 2

私の母方の祖母は肺がんで昨年7月に亡くなっている。ずいぶん前のブログにも書いたことがあるので(こちらを参考に)この内容はその続きになると思う。

祖母がなくなって以来、私は母に自分の仕事のことを話すのを避けていた。ホスピスでの話しになると祖母のことを思い出させるような気がして。
「昨日の夜は忙しかったよ」なんて言っただけでも
「H iの仕事は大変だね・・・。看護師さんは大変だね。おばあちゃん看ててほんと、そう思ったよ」としんみり言われてしまうのでまだ祖母の死の悲しみが癒えていないと思っていた。

すでに1年以上たち、最近少しずつ仕事の話をするようになり、前回のブログに書いたリサのことを電話で話したときだった。

「私に話があるといっていた患者さんが、そのまま亡くなってしまって結局聞くことができなかった」とだけ話した。

それまで祖母のことはあまり口にしなかった母だが、
「ねえ・・・。最期が近づくと人って過去のことを思い出して話したりするの?」と聞いてきた。
こういったことを聞かれたのは初めてだった。
これは祖母がなくなる数週間前、祖母は夜間の不穏、混乱、落ち着きがなくなり過去の話をいろいろするようになり主治医から「過去の話をしだしたら死は近い」といわれていたからだ。

祖母は過去と現在をさまよい「わけがわからん(本人談)」苦しみに悩まされ、夜間床に座り込んでいるところを発見され、ベットに抑制されたこともあった。そして病院側は母に夜間付き添ってもらえないかと連絡してきた。

私はその時、少しの間日本にいたので自分が看護師だとは言わず孫として
「なにか落ち着かせるように薬は使ってもらえないのか?」と看護師と医師それぞれに聞いた。
看護師は「呼吸抑制が出ますので・・・。主治医に聞いてみます」といい
医師は「大量の鎮静剤を使わないといけないから・・・・。」と言葉を濁されてしまった。

私はそれ以上は追及しなかった。すでに数日後に日本を離れる予定であったので、その後祖母を見ていく母にいやな思いをさせたくなかった。そして祖母はこの病院を選んで遠方なのにわざわざ入院したのだ。この主治医を信じて最後まで治療するといっていた。私がスタッフとケアについてあれこれ口を出し祖母の意志にも反したくなかった。

ターミナル時期において、不安が増し、落ち着きがなくなり、身体の苦痛ではなく精神的に落ち着つけない、動揺、興奮、英語で表現すればagitation、 restless、 anxietyなど・・・・。このような症状は緩和ケアでは精神的苦痛やスピリチュアルペイン(霊的苦痛)としてとらえ、ケアが必要であると考える。

そして母は今まで話してくれなかった祖母の最期について語ってくれた。身の置き所のない苦しみを訴えて母が代わりにナースコールを押したこと。看護師は「上の人に聞かないといけないので・・・」と静脈の点滴ルートの側管から流れていたモルヒネの早送りをためらっていたこと。1時間前にモルヒネの早送りをしたので様子を見ましょうといって立ち去ったため、苦しむ祖母を母は一人でずっとなだめていたこと。

祖母はすでに癌であると診断されて、化学療法の効果もなく、骨転移もあり、蘇生しない方針で主治医と家族の間で同意していた。しかし、なくなる間際、意識が朦朧とし、呼吸が不規則になってきた祖母に「しっかり息をすって!」と言っていた看護師・・・。母はこれを見て人が死ぬときにはこうして叱咤し息を吸わせなければ死ねないのだと思ったそう・・・。

母にホスピスで亡くなるときの患者さんは眠るように穏やかだということ、祖母が感じていたわけのわからない苦しみはホスピスでは精神的苦痛・スピリチュアルペインとして捉えて、それらに対してもケアをしていることを話した。
「そうなんだ・・・。知らなかったよ。だって看護師さんたちがこうだっていえば、そうなんだって思っちゃうし。」と母はぽつりと言った。

やはりあの時、祖母がなくなる2週間前、日本にいたとき、私はもっと積極的に主治医や看護師と話し合うべきだったのか・・・。
主治医とは少し話しただけだったが緩和ケアに対する意見が合わないと感じた。私が意固地になって主張することで残される母にいやな思いをさせたくなかったし、祖母は主治医を信じていた。

結果的に最期に付き添っていた母につらい思いをさせる結果になってしまい、とても悔やんでいる。祖母にもつらい思いをさせてしまった。
あのまま日本にいるべきだったのかもしれない。早い段階で祖母にホスピスについて話をして理解を得ておくべきだったのかもしれない。今となっては遅いのだけど・・・・。


それから私と両親は“万が一”について話している。
家族が癌などの末期で治癒の見込みがないときに緩和ケアを受けられるようにすること。
穏やかな最期を迎えられるようにすることを・・・。

聞けなかった話

その日の夜勤は私はもう一人のAuxiliary Nurseとブルーチームの病棟を受け持ち、レッドチームの病棟を看護師のポーラと2人のAuxiliary Nurse、ギャリーとカレンが受け持っていた。ポーラは臨時の職員で私より緩和ケアの経験も浅いことから私がホスピス全体のチャージをしていた。

夜10時の投薬を始めるころ、カレンが私の受け持っている病棟にやってきて
「X号室のリサしってるでしょ?リサに、黒髪のジャパニーズガールが勤務しているかって聞かれたわよ。なんか話したいことがあるんだって。後で会いに着て欲しいっていってたよ。H iに会いにきてくれるようにちゃんと伝えてくれた?って2回も聞かれちゃったし、H iの名前がいえないと困るからって練習までしてるよ(笑)」
といいにきた。

私たち夜勤スタッフは毎回勤務する病棟が決まっていない。そのときのスタッフの人数や患者の数により勤務する病棟が変わる。そのため、私も数ヶ月前はレッドチームの病棟で働いたので前回入院時のリサを受け持ったのでよく知っている。でもそこまで私に伝えたい話は何だろう?と思いつつ、10時の麻薬投薬の確認に行くからそのときに会いに行くとカレンに伝えておいた。

麻薬は看護師2人が金庫から麻薬をとりだして帳簿と在庫数を確認して、患者さんの元へ行き、名前、生年月日、患者番号を確認して投薬することになっている。痛み止めの麻薬を飲む患者さんは多いため、私は自分の受け持ち病棟の患者の投薬をある程度終えた時点でレッドチームの病棟へ向かった。

ポーラは忙しそうに10時の投薬を行っており、「リサが痛みがあるので定期内服の麻薬に加えてOramorphも投与する」といったので、それらを2人で金庫から出して確認し、リサの部屋に向かった。

リサは激しく動揺しており、落ち着きがなく、私がいることにも気づかないほどパニック状態だった。さらに顔色は真っ青でますますひどくなる。呼吸もあらく、全身がしっとりと発汗し末梢は冷たい・・・。明らかにたんなる痛みだけでない状態だった。ポーラはそんなリサをなだめつつ痛み止めを飲ませようとしているがすんなり内服ができないほどだった。何とか内服した後、リサは排便したいというのでポーラはAuxiliary Nurseのギャリーとカレン
にポータブルトイレの介助をするように頼んでいた。

しかし、この状況でポータブルに移すのは危険だし、リサを落ち着かせなくてはいけないと思い、
「Lorazepamを投与した方が良いのでは?それに顔色がどんどん悪くなっていくし・・・酸素がいるのでは?」とポーラに言ってみた。
しかし、ポーラはほかの患者の投薬がまだあるからとその場を離れてしまった。
仕方ないので、ギャリーとカレンに酸素の準備、ポータブルトイレではなくベット上排泄をするようにお願いして、ポーラに一言断ってからLorazepamを投与した。
リサの部屋に戻るとリサの顔色はますます悪く、意識レベルも落ちてきていた。すでに呼びかけには応じるが返答はできない。喘鳴も出現してきた。このまま逝ってしまう・・・そんな状況だった。

それなのにポーラは次の患者の定期麻薬投薬をするからとリサの元に行かない。さらに次の患者は寝ているではないか・・・・。

「私はリサの状態がとても心配だから、リサのほうを先にしましょう。喘鳴が出てきたからBuscopanを皮下注したほうがいいと思うし・・・」というと
「そうね。ほかの患者の投薬を先にやってしまってから投与する」とポーラはという。
そうこうしている間にギャリーが私のところに来て
「リサがこのまま逝ってしまうような気がするけど、ポーラは家族に何も連絡していないと思う」とささやいてきた。

ポーラは臨時職員とはいえ、急性期看護ではかなりのキャリアの持ち主で年も私の母親よりも上の人だ。そしてほかのスタッフから指示されるのをとても嫌う人だった。
でも、状況は状況だし、ホスピス全体のチャージは私なのだからと腹をくくって、
「私が注射するから、ポーラは家族に電話したほうがいいと思う」
といい、私はBuscopanをリサに投与しに行った。

リサはすでに会話不可能な状態まで意識レベルは落ちていた。酸素を開始してBuscopanもきいてきたのか呼吸は先ほどよりも穏やかになっていた。家族もまもなく到着し、ポーラが状態を説明した。
リサの旦那さん、息子さん、娘さん、合計5人の家族がベットサイドに集まり娘さんは涙ぐんでいる。

ポーラと私は残っていた患者さんの麻薬の投薬を済ませて、部屋をのぞくとリサは下顎呼吸をしていたが表情も穏やかに寝ているかのようだった。

私は自分の受け持ち病棟へ戻った。その後、リサは苦悶が出てきたため皮下注射でOxyNorm とMidazolamを2回ほど投与が必要だった。私たちが勤務を終えて数時間後、リサは家族に見守られて穏やかに息を引き取った。


結局私はリサが私に話したかったことを聞くことはできなかった。何を言いたかったのだろう・・・。もうそれを知ることはできない。
なんだか申し訳ないような気持ちで、このことばかり考えてしまって仕事を終えてもなかなか落ち着くことができずにいた。

日本の母親に電話して「私に話があるといっていた患者さんが、そのまま亡くなってしまって結局聞くことができなかった」と話していたときにふと、頭に別の思いが浮かんできた。

もしかして、リサは自分の状態が悪くなるのを知ってたのかも?だから私に来て欲しかったのかもしれない。私に看て欲しかったのかもしれない、と。

・・・でも、やぱりこれは自己中心的な都合のいい考えかもしれないな落ち込み


姪っ子誕生!

11日の朝8時40分、私の姉の第2子が誕生しました
元気な女の子です赤ちゃん

姉は前回の出産時、個人院で出産をしたのだが、難産で30時間以上かかり、赤ちゃんは仮死状態で生まれた。そして県内にある小児医療センターへ緊急搬送された。搬送中にも2回心停止し、私はイギリスにいたので気が気でなかった。
にもかかわらず、姉は結構あっけらんかんとしていて
「先生が念のために送るだけだから大丈夫っていってたし~」
なんて言っていた。
(姉は私とは正反対の性格・・・)
その後、甥っ子は元気に成長し、脳にはまったく問題なし。

後になって聞けば
「そーいえば、分娩室で看護師さんたちが“先生、児心音が落ちてる!!”って何度も叫んでた気がする。。。」なんていってる。
その個人院は帝王切開できる医師が常在していなかったために帝王切開に踏み切らなかったのではという疑問がわいてきた。

だから今回の出産は絶対に市民病院クラスで何かあったときに直ちに帝王切開できる病院で!切腹(帝王切開)に躊躇するな!と私はくどくどと姉に言っていたにもかかわらず
「やっぱり、○○さん(またしても小さな個人院)にしようかな~」
(こりていない・・・・!困った
といっていたのを、家族全員に説得され市民病院での出産となった。

今回もへその緒が首に巻き付いていたらしいが、無事に生まれて母子ともに健康だとか。本当によかった。

甥っ子は旦那さん方の両親に付き添われて病院へやってきて、一言。
笑顔「お母さんのお腹パカンと割れた?」

はやく姪っ子の写真が届かないかな音符




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