英国ホスピスコラム


イギリスの病院でマクミラン緩和ケア専門看護師
(Macmillan Palliative Care Clinical Nurse Specialist)として働くナースのブログ

ちょっと一息、ベルギーへ。

11月上旬にAnnual leaveを2日とったので普段のお休み7日とあわせて9日間の休みが出来たので、どこかへ行こうと思いつつ、いろいろと忙しかったのでなかなか決まらず・・・。
結局Lastminute.comで直前に予約してベルギーへ行ってきました。

ユーロスターで行ったのだが、スタンダートクラスで予約したと思っていたら、ファーストクラスだったのでちょっとリッチに旅が出来きました。食事もけっこう美味しくてワインも頂いた。
ユーロスターだと飛行機のような面倒な搭乗手続きもないし、駅はまでのアクセスも簡単で、チェックインは45分前からなので時間的にも楽なので気に入ってます。

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ここはブリュッセルの中心部、Grand Place。市庁舎、王の家、ギルドハウスがこの広場を取り囲んでいます。とても素敵な広場でイベントや観光客でにぎわってました。

そして有名なブリュッセルの最長老市民である”小便小僧”もみてきました。ものすごい観光客で写真をとるのも一苦労・・・・。


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こちらはアントワープのノートルダム大聖堂の中。
「フランダースの犬」の舞台になったところです。クリスマスイブの夜、疲れ果てたネロがここへやってきて、夢にまで見たルーベンスの絵を見てパトラッシュとともに亡くなってしまうところです。
私は小さな時、この物語が大好きだったせいもあってここに飾られているルーベンスの「マリア被昇天」「キリストの昇架」「キリストの降架」をみてとても感動した。
「フランダースの犬」が好きだった人にはぜひ訪れて欲しい場所。


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こちらはブルージュ。鐘楼からの眺め。366段ある階段はけっこう細くて登るのはきつかった。もう歳なのか・・・(苦笑)
”天井のない美術館”とも”博物館”ともいわれている街。友達のお勧めで行ってきたが、本当にかわいくて素敵な街だった。日帰りでここに着たのがもったいないくらいで、(おまけに雨も降り出すし・・・)もっと長くいたかった。

ベルギーは美味しいものがいっぱいで嬉しかった。ボールいっぱいのムール貝、ビール、ワッフル、チョコレート。
ビールを注文するとフラスコのような形のグラスに入って運ばれてきた。ウエイターさんが「ゆっくり飲みなさいね、ゆっくり」と私に言っていったのだが、私は別にお酒に弱いわけでもないのになあ・・・・なんて思いながら飲んでいた。すると、隣のテーブルのおじいちゃんが同じ形のグラスに入ったビールをいきよいよく飲もうとして、グラスから飛び出してきたビールをおもいっきりかぶっていた。だからゆっくり飲めということだったのか・・・。
チョコレートは大好きなので結構買ってきたのに、もうほとんど食べてしまった。体重が気になるこの頃です。


キラキラおしらせキラキラ
・リンクにお友達の茂森勇さんのホームページ:旅の最中を追加させていただきました。ぜひごらんください。
・ブログペットのウサギ:りりぃをつけてみました。りりぃをクリックすると私のブログを読んで覚えて言葉をしゃべります。

Bereavement

日本から戻ってきて時差ぼけのまま6日連続夜勤へ突入、いろいろあって忙しい日々も続いたが、ようやくほっと一息つくことが出来た。

今回、私が日本に帰った一つの理由に”お墓参り”がある。

このことについてはいろいろ悩むとこがあったので、ここに書くかどうか迷った。でも家族側の立場としての思いもあるので、気持ちの整理がついた所で書きこむことにした。

私の母方の祖母は今年の7月に肺癌でなくなった。

5月末、祖母の容態が悪化したときに私は運良く3週間の特別休暇をもらうことができたので帰国することが出来た。その3週間は祖母の容態は悪いながらも落ち着いていた。しかし、私がイギリスに戻って約2週間後に亡くなった。残念ながら亡くなったのが早朝で、日柄の関係でその日の夜に通夜、翌日お葬式だったので私はどう頑張っても間に合わなかったので帰国しなかった。

祖母は市民病院の内科病棟に入院していたが、あまりよい最期ではなかった。詳しく書くと、批判的なことになってしまうといけないのでここでは避けておきます。

母は最期の2週間ほど毎晩泊まりこんで祖母を見守った。祖母が亡くなったときに電話で話した母はひどく落ちこんでいて、言葉すくなだったがぽつりと言ったのが、
「人が死ぬことってあんなに大変なんだね。あそこまで苦しまなければいけないんだね・・・・。」
母は祖母の友人には安らかに亡くなったと話した。そうでなければみんな悲しむと思ったようだ。

病院にお金の清算にいったとき母は病棟に挨拶に行こうとしたそうだ。一言、お礼を言わなければ・・・と。しかし、祖母の最期のときを思い出してしまい、つらくなってしまった母はエレベーターに乗ることが出来なかった。

私は日本を離れるときに祖母の死についてはある程度の覚悟はしていたので、祖母の死の悲しむというよりも、母が深く傷つき、苦しんでいることのほうがつらかった。私はなにも出来ず申し訳なかった。
それからというもの、ターミナルの患者さんの家族の姿を見ると母の姿が重なった。母もこうしてベットサイドで泣きそうな顔で付き添っていたのだろうか・・・・。

ターミナルケアの重要性を身にしみて感じた。患者さんの症状のコントロール、安楽の確保の重要性。それは患者さんだけのためではなく、その家族のためでもある。患者さんの苦痛は家族の苦痛でもあると思う。私たちはそのことをけして忘れずに、患者さんも家族も同じようにケアしていかなければいけない、と思う。


日本にいたとき、母が一本のビデオテープを見せてくれた。題名は「お別れビデオ」だった気がする。
それは祖母のお葬式で流されたものだった。葬儀屋さんが作ってくれたものだ。
祖母の笑顔の写真、友達と旅行に行ったときの写真、カラオケ大会の写真、ひ孫を抱いた写真・・・。
何枚かの写真とともに「みな様のおかげで私は精一杯生きることが出来ました・・・」みたいなナレーションが流れた。(もちろん祖母の声ではないが・・・。)
祖母が作ったビデオではないとわかっていたが、きっと本人はこんなふうに言うだろうなあ・・・と思うと涙が出た。

お葬式では祖母の友達はこのビデオを見てみんな涙したらしい。まるで祖母が語りかけたかのような内容と一緒に映っていた写真をみて嬉しくて泣いていたそうだ。

このビデオは葬儀屋さんにしてみたら事務的なものかもしれないが、残された家族・友達の悲しみを少し癒してくれた気がした。

日本へ

7晩連続の夜勤も今朝で終わり。今から日本に3週間いってきます!

私の場合、7夜勤・7日休みという勤務なので7日間Annual leaveを取ると3週間のお休みが作れる。今年にはいって3週間の休みを取るのは2回目だが、日本だったらこんなに休みは絶対にとれない。
この休みの取りやすさが私にはとっても魅力的。

今回の夜勤初日に私の大切な仕事のパートナーである”電子辞書”を壊してしまった・・・。
医学辞典の英和・和英も入っている優れものだった。
私の英語(特に読み書き)はかなりいい加減で、記録を書くときに電子辞書はスペルチェックも出来て重宝していた。その日も記録を書くときにつかって机の上に置いておいたら、肘で押してしまい、床にことん、と落ちてしまった。今まで何度も落としてきたが、びくともしなかったのに、あっけなくスクリーンが割れてしまった。
あまりのショックに言葉も出ず・・・・。

他のスタッフからは
「そんなに落ちこまなくっても、辞書なんてもう無くても大丈夫よ。」と慰められたけど。

アダプテーショントレーニングのときから電子辞書は、持ってるだけで安心する私にとってお守りのようなものでもあった。
まあ、”辞書に頼らず自分で何とかできるようにもっと英語を勉強しなさい”というお告げ?でもあったかも。それとも、”そんなに大切ならもっと丁寧に扱え”ということか・・・。
とにかく日本に帰ったら修理してこよう。

いつも日本に帰ると食べ過ぎ・飲みすぎで太って帰ってきてしまうが、イギリスに帰ってからまたダイエットすることにして、せっかくの日本滞在楽しんできます。笑顔

Soul Pain / Spiritual Pain

これは何ヶ月か前の話。
真夜中だった。突然ものすごい叫び声がホスピスに響き渡った。明らかに隣の病棟から聞こえてきた。声のしたほうへ行ってみた。

「ジョンの寝言なのよ・・・」とその病棟で勤務していた看護師は言った。
ジョン(仮名)は7X歳の男性。記憶は定かでは無いが、たしか大腸癌だったと思う。疼痛、嘔吐などの症状のコントロール目的で入院していた。
それにしてもかなりの声だった。ジョンの部屋は個室でその病棟の一番奥に位置しているのに、隣の病棟まで聞こえた。

ジョンは悪夢に時々うなされるのだが、内容は一切スタッフには教えてくれなかった。ようやく教えてくれたのは、その悪夢にジョンは何十年もうなされている、だからどうしようもないのだ、ということだった。
悪夢を見たあとのジョンはとても暗く落ちこんでいる。普段はお喋り好きでユーモアのある人なのに・・・。
私のことをチャイニーズガールと呼ぶが寝る前には彼の知っている唯一の日本語「サヨナラ」といつも言ってくれた。

スタッフとジョンで話し合い、TemazepamとHaloperidolを就寝前に内服してみることになった。
しかし、悪夢は再びジョンの睡眠を妨げた。
ようやく、ジョンは重い口をスタッフに開いてくれた。

彼の見る悪夢とは戦争の夢だった。ジョンは世界大戦の頃、戦場で何人もの人を殺したのだと言う。たくさんの仲間も失ったという。その本人の身体にも大きな銃創があった。
戦後からずっとその夢にジョンは悩まされつづけていた。

本人はそれ以上夢についてはほとんど話したがらなかったため、夜間セデーションの量を増やし、安眠を確保できるようにしていった。

しかし、徐々にジョンの全身状態は悪化していき、覚醒しているときのジョンは絶えず落ち着きが無くなり、ベットから身を乗り出したり。車椅子に座っては一箇所にとどまっていられず。
「Please help me, please help me....」と看護師の手をとって懇願するジョン。

病棟看護スタッフだけでなく、家族のサポート看護師、牧師もジョンと関わりを持った。彼を何十年も苦しめてきた戦争の悪夢とのかかわりもあり、本人も積極的には口にしたがらなかった。
このようなケースでは関わりがとても難しく感じた。

そしてOxyNorm(Oxycodone), Midazolam, LevomepromazineをSyringe Driverで持続皮下注開始された。ジョンが落ち着くまでは投与された薬品はかなりの増量が必要だった。そのくらい彼の苦痛は大きかった。
ジョンは数日後、投与された薬品により穏やかに悪夢に悩まされることなく眠るようになくなった。

ジョンの訴える苦痛はPhysical Pain(身体的な苦痛)というより、Psychological Pain(精神的な苦痛)、Soul PainまたはSpiritual Pain(霊的な苦痛)であったように思う。


このあいだ他のホスピスのSymptom managementの講習会にいってきた。講習会の最後のセッションでそこのホスピスで働くChaplain(牧師)がSoul Painについて話してくれた。

本
Palliative CareにおいてSoul Pain / Spiritual Painは死に行く患者がしばしば経験することで、主に次の2つの分野で苦痛を感じる。

・Life History 
 -やり終えていない事柄、過去に壊れてしまった人間関係、癒されていない傷、後悔、罪の意識、
  許し・和解・調停を必要としている 
・The individual in relation to his/her own death
 -死滅・消滅への恐怖、信仰、神

どのように症状は表現されるか?
・Open
 -Chaplainに”I want you to help me find peace before I die"と訴えたケース
・Veiled
 -身体的症状:呼吸困難感、胸部痛、不眠などを訴えたケース。

どのように関わるか?
・聞く
 時間をかける。ごまかさない。避けない。きっかけ・患者の訴えのヒントをつかむ。
・それらのことをよくすること・正しい方向へすることができないことも認める
 しかし、それについて話すことが患者にとって助けとなることもある
・前向きなこと、何が出来るかをみつける
 eg.家族関係において:メモリーボックスの作成。(残される家族へ患者の思い出として残す)
               疎遠になっていた家族への連絡。
   個々に:余暇を楽しむものを提供。宗教的な儀式、懺悔、お葬式の計画

(By Rev.J Davies at DOKH)

Soul Painはそれぞれの患者により根本にあるものが違い、表現のされかたが違うのでそれに対する関わり方も個別性が要求される。日本人とイギリス人の感じるSoul Painはまた違った面もあるかもしれない。また宗教が絡んでくると私は無宗教なので理解が難しい。

Soul Pain / Spiritual Painは完全に取り除くことは不可能なのかもしれない。簡単に答えは見つからないものだろう。
だからといってそこでほかっておいたり、あきらめてしまうのではなく、何かできることはないか、患者さんと話したり一緒に悩むことで、一緒に答えを探していくものなのかもしれない。

Soul Pain・・・考えれば考えるほど難しい。
こうして私の勉強はまだまだ続く、というかまだまだこれから・・・。

短いホスピス滞在のケース

私は7晩連続夜勤をし、7日休みという勤務で働いている。
前回の夜勤初日、その日に入院してきたジャック(仮名)がいた。80代の男性で食道癌。
状態が悪化し、ターミナルケア目的の入院。
申し送りをした日勤スタッフが
「朝ジャックがいなくなっていても驚かないわ・・・」といった。
そのくらいジャックの状態はもう悪いらしい。

15年前に妻をなくしてからジャックは娘一家と同居、とても仲のいい家族らしい。
ずっと娘さんが介護していたが、状態の悪化により苦痛が激しく家での介護が困難になり入院となった。

申し送りが終わると、まずはジャックをみにいった。一目でもう長くて2・3日かもしれないというくらい状態が悪かった。Syringe DriverでDiamorphineとMidazolamが持続皮下注で投与されており、穏やかに眠っている。
ベットサイドには娘さん、3人の孫娘たちがいた。

「私は今晩はここに泊まります。孫達はどうしたらいいか・・・。」と娘さんに言われた。
孫娘たちはとても心配していてジャックの最期には絶対そばにいたいという。ホスピスと彼女たちの家の距離は車で45分。

「ジャックの状態はとても悪いです。いつなくなるかは誰にも分かりません。今すぐに、という状態でもなさそうですが、もう長くはないかと思います。今晩中に、というのもありえます。もしも、彼女たちがジャックの最期のときに側にいたいというのなら、ここにいたほうがよいかと思います」
という私の言葉に娘さんはショックを受けた様子だった。おそらく、状態が悪いと言うのは分かっていても、”今晩中”というのは受け入れられないのかもしれない。
それは孫娘たちも一緒だった。みんな泣き出してしまった。

残念なことにジャックは大部屋にいた。
他にも2人患者さんがいて、とくに彼らは物音に敏感だった。このまま4人の家族がここで話をしていたら彼らは眠れないだろう。しかし、ジャックの状態を考えると家族が側にいたいというのを邪魔したくはない。
それぞれのベットのカーテンを引いて、ついたてを立て、あらかじめ、ジャックの同室者には
「ちょっとうるさい夜になるかもしれないけど、ごめんね。」と謝っておいた。
こういうとき大部屋は不利だ。

ベットサイドにはリクライニングチェアとブランケット・枕を準備した。そして家族には交代で仮眠をとってはどうかと提案した。このホスピスには家族用のアコモデーションがあるのだ。そこにはベットルーム、バスルーム、キッチンもある。

真夜中、穏やかに寝ているようだったジャックは苦痛様の顔貌がみられ、四肢を動かし始めた。家族もジャックが苦しそうに手足を動かすたび、泣きそうな顔でジャックを抱きしめていた。
DiamorphineとMidazolamを追加で皮下注射した。
しばらくしてその効果が得られ、ジャックはまた穏やかに眠っているかのようだった。

それから数時間後。
もしかしたら「今晩中に亡くなるかもしれない」と言ったのは外れだったかもしれない、と考えていた明け方。ジャックのベットナンバーのナースコールが鳴った。
ベットサイドにいた孫娘2人が、ジャックの呼吸が変わったことを心配してナースコールを押したのだった。
ジャックは下顎呼吸になっており、まもなく逝ってしまいそうだった。
孫娘の一人が他の家族を呼びにいってくると家族用アコモデーションへ向かった。ベットサイドに残った孫娘は泣き出した。
ジャックの呼吸はすぐに浅くなりすぐにも止まりそうになってしまった。

しまった・・・と思った。孫娘2人をここに残して私がたの家族を呼びにいくべきだった。
私は「すぐに戻るから」とジャックに付き添っている孫娘に言いのこして廊下を急いで歩いた。
階段を上がるとちょうど家族が部屋から出てきたところだった。
私の姿を見た家族が走ってきた。
「ジャックはもう逝ってしまいそうです。はやく」といって急いで家族をジャックのベットサイドへと誘導した。

残念ながらジャックは息を引き取っていた。ベットサイドにいた孫娘は泣きながらジャックの手を握っていた。私は彼女を抱きしめて「ごめんね、一人にしちゃって・・・」と言った。
家族はみんな泣き、ジャックを抱きしめた。
私は「オフィスにいるので何かあったら声をかけてください」と言って退出した。
家族に最期のお別れの時間を十分にとってもらうためだ。

私の働くホスピスには夜間常在する医師がいない。
(もちろん患者の状態悪化などで医師に相談が必要な時は電話でOn-callのGPまたはコンサルタントへ連絡できることになっている)
そのために夜間の死亡の確認は看護師が行うのだ。
そして朝、週末の場合は月曜日の朝に出勤してきた医師によって死亡を再度確認し死亡診断書の発行となる。

私は死亡確認をするのに初めはとても抵抗があった。
日本では病院で働いていたから状態のの悪い患者さんには心電図モニターはみんなつけていたし、そのため心停止もモニターを通してみる事ができていた。
ここでは患者さんには心電図などのモニターもついていない。

30分ほどして娘さんがオフィスにやってきた。
少し落ち着いたようすだったので、今後のこと、死亡の手続きについて説明した。
そして今から家に帰るといった。まだ外は暗かった。

私は紅茶を作り、家族にラウンジで紅茶を飲んでから帰ってはどうかと勧めた。まだ動揺している孫娘が車の運転をするのが少し心配だったので・・・。
「落ち着くまでゆっくりとしていってください。コーヒーマシーンもあるからたくさん飲んでってくださいね」と言って私は病棟へ戻った。

その後、家族はずっとラウンジにいた。心配になり、のぞきに行ったがジャックの思い出話をしているようだったので、そっとしておいた。
家族が家路についたのはジャックが亡くなってから3時後だった。

別れ際、家族一人一人とHugし、声をかけあった。「ありがとう」と言われた。
私はジャックと家族の為に本当にいいケアが出来たのだろうか・・・。
ジャックは入院して1日もたたないうちに亡くなった。ホスピスに入院してくる患者で入院してすぐになくなるというケースは時々ある。
わずかな時間で家族との信頼関係を作る難しさをかんじる。

患者さんの死後の家族のケアはFamily support sisterに託される。病棟から家族関係、家族の受容状況などをまとめた書類を提出し、それをもとにFamily support sisterが連絡をとっていく。
患者さんの1年目の命日にはカードを送る。そうすることで家族から連絡があって近状も聞くことが出来る。
Family support sisterは患者さんの入院中も関わってくれる。
家族・親しい友人で、患者さんの状態の悪化や死に対して不安の強い場合、受け入れのできていない・ストレスを感じている、患者本人との関係に支障が生じてきた、患者さんの子供の精神ケアなどの場面で話し合う機会を持ってもらう。

8X年というジャックの人生のなで私が関わったのはたったの7時間。彼の人生の中で見たら、そんなのほんの一瞬にすぎない。一瞬だけど彼にとっても家族にとっても、とても大切な時間。
その大切な時間を有意義に過ごせるように援助できただろうか・・・。
自分ではいつもベストを尽くしているつもりだが、不安になることがある。
人はみんな感じ方も違うし、考え方も違うと思うから。そして亡くなった患者さんには当たり前だけど、どう思っているかなんて聞くことが出来ない。

自分の未熟さを感じる・・・。



PS.
後日この家族からお礼のカードとプレゼントが届いた。
なによりも、家族の気持ちを知ることが出来るのは嬉しい。
この仕事をしていてよかった、これからも頑張ろうという気持ちになる。
プロフィール

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